守山ボタルの歴史

・守山は、かつてホタルの群生地だった 

 

 繁盛しているほたる問屋(桜井屋)の風景

守山ボタル天然記念物指定標柱


守山は、古くからゲンジボタル(守山ボタル)の群生地として知られていました。
1902(明治32)年から天皇陛下への献上が始まり、守山ホタルはますます有名になっていきました。大正時代から昭和のはじめには、ホタル祭りが盛大に行われ、京阪神から多くの人々が特別列車に乗ってホタルを見ようと守山を訪れました。
さらに、
ホタルが有名になった守山には、明治時代になるとホタルを売り買いするホタル問屋がたくさんでき、ホタルの乱獲が続きました。1924(大正13)年129日には、乱獲を防ぐために守山ボタルは「天然記念物」に指定され、第1号「天然記念物指定地」との看板がかかげられたのです。
しかし、経済の発展とともに、生活排水・工場排水・毒性の強い農薬などが、ホタルの生息する水路の水を汚染していきました。こうしたいろいろな要因が重なり、守山からホタルが次第に姿を消していったのです。そのため、1960(昭和35)年には、国の天然記念物の指定を解除されてしまいました。

 

南喜市郎と守山ホタル

ホタル研究に没頭する南喜市郎

 南喜市郎氏は、1896(明治29)年10月23日守山市守山町(泉町)に生まれ、旧滋賀県立八幡商業学校を卒業後、家業の醤油製造業を手伝っていました。1919(大正18)年、本山彦一氏(元大阪毎日新聞社社長)が守山を訪れた時に、ゲンジボタルの研究を勧められた。その後、岐阜の昆虫学者である名和靖氏の依頼で、守山での生態調査の案内役をし、調査研究に協力しました。それ以来、調査研究に没頭し、河川での調査でゲンジボタルの幼虫が巻貝のカワニナを食することを発見しました。
さらに、人工飼育にも取り組み、1958(昭和33)年に室内飼育により初めてホタルの羽化に成功しました。1961(昭和36)年には、これまでの40年間の研究観察のまとめを「ホタルの研究」として著しました。この本は、今でもホタルについて多くのことを私たちに教えてくれています。

 また、喜市郎は、ホタルの研究をしただけでなく、ホタルの保護活動にも力を入れました。1968(昭和43)年には全国ホタル研究会のもととなる全国ホタル同好会を発足させ、初代会長に就任するとともに守山で第1回研究大会を開催させた。南喜市郎の調査研究の成果や保護活動が、現在の守山のゲンジボタル復活に繋がっているのです。

南喜市郎の年譜 南喜一郎氏 年表