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 下之郷町は、守山駅からバスで8分のところにあり、赤野井までの中間地点になります。
以前は純農業の村で、下之郷に産する芋は有名で、京都や大津まで出荷していました。
今は湖南地域の都市化の中に組み込まれるようになりました。


平成十四年三月、国の史蹟に指定をうけた「下之郷遺蹟」という弥生時代の遺跡は、わが国の弥生文化を代表するものであります。
そして下之郷という地名は全国に広くその名を知られるようになりました。
 
 下之郷という地名のおこりは、古代文化の名残りに由来するものです。
わが国に条理制が施こされましたが、下之郷は十四条八里の中にあり、この下方に在った故に付けられた地名で、中之郷などと共に全国に沢山ある地名です。
また、一説には後鳥羽上皇ゆかりの荘園である吉身荘の下方に在ることも考えられます。下之郷の里の北側には、野洲郡の条理の十三条と十四条の接する道路として今に遺る大切なものであると云われています。

 守山駅が誕生するまでは、野洲駅から赤野井の湖岸まで通ずる幹線道路でした。
 十五世紀ころ、わが国が南北朝時代の混乱期に遭遇し、村の自治が成立して惣村ができた時、下之郷も同様でありました。

  村人の精神的な拠所として延命道場という道場がありました。この道場が安土桃山時代・江戸時代の始めに、村分かれがあって善慶寺常念寺という一村に二箇寺を有する豊な村となりました。 

 下之郷の里中は、幾つかの屋敷という共同体に分かれて、廿日汁(はつかじる)という吟味汁で誓いを交わして村の秩序を守ることを約束していました。
この秩序を守って今日まで栄えてきました。この間に下之郷は、守山乙という地名になりました。
明治二十二年市町村制が公布された時に、守山表村・守山裏を守山甲に守山下之郷村は守山乙と表記するようになりました。

 その訳は、中仙道の宿場が守山にできますと、宿場人足の補充として人口の多い下之郷が充足され、江戸時代の終わりころには庄屋を置かずに守山表村の支配を受けていたからです。
第二次世界大戦の敗戦後、新憲法のもとで下之郷という昔の名前に帰りました。下之郷という地名は「守山村下之郷」(元和四年・1618)とお寺の宝物の記録にでてくるのが最初のようです。
里中には、平安・鎌倉・室町の各時代の石造美術や石造の地蔵さんが沢山あって、石の文化が村の歴史を語りかけてくれます。

太平洋戦争・第二次世界大戦の戦争で、二十柱の戦病死者をこの村から出しております。
昭和二十年には九十二戸の戸数ですからこの比率は多い方ではないでしょうか。
平成16年12月現在では、人口1,763人・戸数 597戸にまで発展してまいりました。



 里中には、石田川が流れています。
八代の湧水を源とする石田村の農業用水が流れている故をもって付けられた名前です。
この川は八代から右折れして守山に通じておりました。
かつては、守山の浦に舟が何艘かあって境川と双方に分かれて水運の幹線水路となっていたようです。
明治五年・1872年に吉身の岡田逸治郎が中仙道まで拡張して水運の便を図ったのでした。

 下之郷は、守山との交流が深いようですが、古くは大津支那中葦浦三宅金森下之郷播磨田
川田野洲行畑へと繋いだ幹線道路の中に位置したところであります。
村むらの中に散在する石の文化がこのことを教えてくれるのです。

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