わが町自慢
〜 石田町の由来と伝説 〜


石田町名前の由来

世に名高い、天下分目の関が原の戦に破れた石田三成が、近江の国に逃れ、この地、石田に多くの家来の落武者が定着したと語り伝えられています。

武将石田三成は、東軍、徳川勢にしつこく追われ石田から、赤野井浜より舟で、西近州に落のび、自分の出生地、今津町石田村に定住したましたが、さらに東軍に追われました。

のち、京都山科山中で土民に殺されました。


このあたりから、落武者達が、棟領、石田三成の姓をとって、石田村と名付けたのではなかろうかと思われます。


石田三成
石田の一本松

「石田の一本松」の伝説によれば、元亀元年(1570年)、佐々木六角氏が、織田信長の軍勢と野洲川で激戦した折、当地も、戦場となり、佐々木氏の軍勢が敗北し、多くの武将が殺されました。

その弔いの意味から死骸を埋めて塚をつくり、目印に一本の松の木を植えたのが、今も石田町の東に残っています。


この塚を、岡塚とも、ダイジョーグとも呼ばれ、神輿の灰が埋められたとも一説に言われています。


この松の木をなぶる(さわる)と、たたりがあるし、木から血が出るといわれ、村人から恐れられ、大木の枝が地面についたら、大水が出て、田畑家戝を流し、村の荒廃をも恐れていたそうです。

また、塚をけづって田を広げた人に、鼻なし子が出来、元へ返したら治ったとも言伝えがあります。
七まがり

今一つの伝説に「石田の七(なな)まがり」というのがあります。


中仙道の野洲川橋から、まっすぐに下之郷町と播磨田町の間を通って、石田町に入り、赤野井町に通じる道は、石田の在所で、「七まがり」しています。

また、石田町の西から東へと、二丁ごとに「ノキバ」がありました。
昔、代官様が通られたとき、通行人がよけた道のあとが残っていて、町の人は「車よせ」と呼んでいます。


一本松が、なぜ石田で「七まがり」しているのか伝承は定かではない。
先に述べた、佐々木軍と、織田軍の戦いとか、後の賎ヶ岳の合戦で敗れた落武者達が敵の攻撃をふせぐ策として、この迷路を考えたのであろうと推察されています。

日本地名大辞典・角川書店著による(昭和六十二年調)



狐塚の伝説