石田町の歴史
石田川の歴史
石田川は、野洲川の伏流水を流す条理地割りに従う一直線の人工河川です。この川は岡田逸治郎が米などの運送のために運河化し、明治5年(1872年)から明治13年(1880年)までは守山中尾方面から赤野井町方面まで米穀運搬の高瀬舟(ひらた舟)で上下する大事業が行われていました。同じ開門式運河のパナマ運河とは、規模的には比較になりませんが、起工は先立つこと10年であるといわれています


石田町の歴史(ルーツ)
石田町に、「村中名前鑑(ムラジュウナマエカガミ)」 という古文書が残っています。明治3年4月に記された50ページ程のものです。家系図のように名前とその肩に年号が書いています。
天下分け目の関ヶ原の合戦が起こった1600年、慶長年間には西軍の落武者達の名前がこの古文書に出てきました。徳川家康が没した1615年元和年間にも落武者と考えられる名前が出てきます。さらに1644年天保年間になると姓を隠した落武者たちの名前がでてくるようになり、この時代から定住していったと考えられます。以後、1661年寛文年間より、その子孫の分家や、転入者と思われる名前がでてきますが、名字が無く現代との繋がりははっきりしません。


このように石田町は江戸初期からできた村落であるといえそうです。

参考文献:石田ななまがりNO.8、守山市誌(地理編)